年賀状はもうださない さようなら年賀状 2023年

年賀状

さようなら年賀状

数年前から年賀状を出す人をどんどん減らしていた。今年からは思い切って一切出さない事にした。出す人、出さない人、なんて区別するのも面倒くさい。なら一切出さない方が簡単だ。もちろん「〜〜故に本年より年賀状を止めます」なんてハガキも送らない。年賀状なんか出さなければ、次第に来なくなるのだ。こればかりはフェイドアウトでいいと思う。礼儀だのなんだのと言っていたら、いつまでも止められなくなる。そんな礼儀とやらは単なる見えない檻に過ぎないのだ。こんな時代だ、檻から出て自由になろう。

あたしは仕事柄25年以上も他人の年賀状を作り続けてきた。毎年作りながらこう思うのだ、

「こんな行為にいったい何の意味があるのだろう?」と。

特に強くそう思うのは、絵柄面のみならず宛先も、全てこちら任せの注文を受けた時だ。客によっては刷ったらそのまま投函してくれといわれる。そりゃあ年を取り思うように字が書けないとか事情はわかる。が、何一つ自分の痕跡を残す事なく、自動的に形だけ整えて出された年賀状。こんな年賀状を送る人なら、受け取った年賀状も何一つコメントもないただ印刷された年賀状なんだろう。なんなんだろうこの礼儀とやらは?

ただ正月にだけチラと眺めるだけの紙の交換には、いったい何の意味があるというのだろう。最近の企業は、環境がうんたらだの、くそエセSDGsがどうたらとかの理由で、年賀状を止める所がとても増えてきた。こんな無駄な経費を削減したかった企業にとっては、そうした環境云々は格好の年賀状を止める理由付けになったろうと思う。そもそもただ印刷しただけの紙ぺらを、毎年この時期にだけ交換するアホな行事はとても虚しい。

虚礼の付合いなんかうんざりだ

年賀状

もらった年賀状に対して、こちらが返さなければ失礼に当たるだって? そんなのはただの虚礼だろう。あたしに言わせれば、ただ人任せに刷った紙っぺらを送り付ける行為の方こそ非礼だと思う。体裁だけ整える事が礼儀だというのなら、あたしは無礼者に喜んでなりたいと思う。なので無礼者のあたしは、今年からきっぱり年賀状を止める事にした。年賀状は100年ぐらい前から続いているチェーンメール(←死語)と言ったっていいだろう。このハガキを10人に送付しなければ、記録が途切れてしまいます、なんてハガキを受け取ったことはないだろうか? 年賀状と何が違う?

虚礼の付合いなんか、もううんざりだ。

習慣への依存

妻曰く、「こうして年賀状をやり取りしていれば、何かあったときにわかる」なんて言う。本当に大切な人ならこんな紙っぺらがなくても、何かあれば誰かから連絡が来る。こんな年賀状ごときで消息を伝えあうような希薄な付合いの人など、どうだっていい人なのだ。

みんながやっているから。みんなと違う事をするとおかしな人と思われるから。多くの人は多くの行為の奥底に、そういう感情があるに違いない。だがあたしはおかしな人間なので、そう思われたって結構。見た目だけの、中身の無い虚礼などどうだっていいのだ。人がやっていようが、やっていないが、中身の無い行為はもうきっぱりと今年で止める事にした。その第一段が年賀状だ。

とある知人は「印刷は文化だ」と言っていた。確かに印刷には文化と言える面もある。だけども実際の印刷物は、ほとんどがただゴミに過ぎない。正月の新聞折り込みチラシを、後生大事に取っておいて見る人なんかどこにいる? ちらと一瞬見て、あとは古紙置き場ゆき。それは年末の忙しい時期に多数の人の労力をかけて作られたチラシだ。それどころか印刷物の99%の運命はそんなものだ。ただのゴミを作って経済を回しているだけだ。貴重な資源を使ってゴミを生み出す、GDPにも貢献するだろう。それが文化的だというのなら、文化とはクソみたいに無価値な行為の別名なのだろう。

それで経済が回っているから、うちらは食えているとほざくヤツもいる。そんな虚の経済で喰っていてむなしくないか? そんな嘘の経済など、破綻してしまえばいいと思う。虚の経済で潤った虚の幸せ。娘を大事に思いながら、子を虚の信仰の生け贄にしているのだ。親がバカだと子供が不幸になる。うつみんはそういう親を毒親と罵倒している。SHINE!

「虚の時代」はもう終わりにしよう

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年賀状をやり取りするなんて、こんな習慣はなくなっても誰も困らない。その証拠に最近「年賀終い」の一文を入れてくれという注文がちらほらと増えてきた。

去年など一昨年の5倍程そういう年賀状の注文を受けた。年を取ったから、とか理由をつけながらも、その心の奥底にはこうした無意味な、金をただドブに捨てるような行為にうんざりした人達が増えてきたんだろうと思う。そういう人がもっと増えればいいのに。

長々と年賀状について語ってきたけれども、今大はやりのマスクも同じ事だと思う。多くの人は既に気がついているだろう。こんなマスクなんか無意味だって言う事に。もう感染症もたいした事がないという事に。なのにいまだに多くの人はマスクを外せない。空港、JR内、町中を歩くときすらマスクをした人だらけだ。それはただ単に皆がマスクをしているから、マスクをしているのが当たり前だと思い込まされているからだろう。そしてマスクをしていないと変な人と思われるから。これも「虚」だ。

実際にはマスクなんか無意味だと多くの人は気がついていると期待したい。あたしが空港内、JR内、街を歩くとき、マスクなしで闊歩していても、もはや誰も何も言わない。マスク警察なんかに嫌がらせをされた事もない。だけどもあたし以外の殆どの人はマスクをつけたままだ。

そういう人達は、誰かから、権威から、「もうマスクをしなくても良いよ」と言われない限り、マスクを外せないんだろう。誰かに何かを言われない限り何もしないように、幼児の頃から学校という名の調教機関で調教され続けたざまがこの社会の有り様だ。

考えてみれば、そんな「虚」「嘘」ばかりが身の回りにはびこっている。見かけだけ、体裁だけを整える「虚の時代」にはもう、うんざりなんだ。

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