2000年経っても救済されない人達 安っぽい救世主願望、二極化、Qアノン、スピ系 

救済はいつ?

二極化にすがりつくアホ

最近二極化なる言葉をネット上で目にするようになった。一言で云うなら最新型のスピリチュアル系の流行語だ。地球の波動が上昇するだの、アセンション(でた、まだこんな言葉が生きてたのかWWW)で淘汰されるだの、「選ばれたものだけ」がなんだか素晴らしい場所に行けるらしい。素晴らしい優遇措置だ。で、それって誰があんたらを選ぶわけ?

10年一寸前には、アセンションで地球の次元が上昇するだの、円盤が大挙してやって来るだの、と云うのが流行っている。この手の馬鹿話は何度もブームが来ては繰り返されている。

ブームが来て、以前のブームを知らない若い世代が騙されて、下火になって、また名前を変えてブームが来る。インフルエンザの流行のようなものだ。

またQアノンなんてモノを信じて、「トランプはディープステーツと戦っている、人類のヒーローなんだ」と大絶賛する人たちも良く目にする。早く死んだはずのケネディーが、日の光の下颯爽と登場して欲しいものだと思う。

方やスピリチュアル系、方や政治系。いっけん別物のように思えるが、オレに言わせればどちらも同じ精神構造を持った人たちだ。結局の所、自分じゃなにもしないくせに、都合よく「何かに」「誰かに」助けてもらおうと、すがるだけの哀れな人達だ。オレが20代の頃に流行っていたニューエイジも、その本質はおんなじだろう。

それらに共通するのは、この危機的な世界に「誰かが(もしくは何かが)やってきて、『アホだら教の信者だけ』を救ってくれる。そしてどこぞにある素晴らしい約束の地に連れていってくれるんだそうだ。まったくもって超安っぽい救世主願望だ。

地球の空を宇宙船が埋め尽くすのを早く見たいものだ。

大量逮捕で悪の支配層が逮捕されるのを早く見たいものだ。

何とか次元に移行するのを早く見たいものだ。

そしてそんな楽しい楽しい救済から取り残されたオレがどうなってしまうのか、早く体験したいものだ。

浄土真宗の奇妙な信仰集団

お寺


浄土真宗には奇妙な信仰集団がある。それは寺に属さず、閉ざされた仲間内で秘密の信仰を守るという集団だ。それもの一形態なんだろうと思う。その集団の中心には「お父さん」と呼ばれる世話役がいて、その人を中心にしてその信仰が営まれている。普通のお寺同様、報恩講等の行事が営まれているらしい。

その講に入るためには、その集団内の誰かの紹介を受けなければならない。そして「お父さん」から何やらを「頂き」、始めてその仲間に入れるという。もともと浄土真宗にはキリスト教に似た奇妙な部分があるが、この講はそれが更に強まっているように感じる。「お父さん」がいたり「頂く」なんて云うのは、神父や聖体受領を彷彿させられる。

実はオレもそんな秘密門徒の仲間らしい。オレが幼児の頃、こうした集まりに親戚のおじさんに連れられていかれた事がある。会場は何処かの個人宅で、狭い室内ににびっしりと20人程のの秘密門徒が集まっていた。そして皆一心不乱にお経を唱えていたのを微かに記憶している。そんな場にいたという事は、オレも何やらを「頂いた」んだろう。

こうした秘密門徒の人たちは、表向きは何処かの寺の檀家になっている。だから普段は普通の浄土真宗の門徒の振りをしている。だがその裏で、こうした秘密の講を年に何回か開いているのだ。

まだ誰も供養する対象が居ないはずなのに、立派な仏壇がある家は、そうした信仰の構成員かも知れないので要注意だ。変な集会に誘われたら、きっぱりと断ろう。あとあと面倒な事になる。

秘密の信仰を持つのは別に構わないと思う。だが何が嫌かって、秘密門徒だけが集まれば、世間一般の仏教徒(もちろん浄土真宗も含む)の事を、自分たちよりもレベルの低い、卑しいものとして馬鹿にしだす。「極楽浄土には、あの人たちの居る場所なんか無いわ」等々と。

何故そんなにもその秘密門徒が、他より優れているのか? それは単に何やらを「頂いて」いるから、他の門徒とは違うという。何故にそんな優越感に浸るのか、オレにはさっぱり理解出来ない。

その親戚のオジサンは言う、
「私たちは頂いているから、死んでも行く所(極楽浄土の一等地らしい)が決まっている。だけども他の門徒たちは、そこには行く事が出来ない。」と。

「私たちだけが、線香を燃やせば真っ白な灰になる」。「頂いた人の遺体は、死後硬直しても首だけは軟らかいままだ」。等々、信じれば数々の特典があるらしい。オレは肩凝りが酷いのだが、それでも死んだら首だけは軟らかくなるんだろうか?

なにゆえにその秘密門徒だけが、そんな極楽浄土の一等地に行ける程優遇されるのか判らないが、そういう良い信仰だから信じなさいというわけだ。

この秘密門徒の特徴の1番は、とても閉鎖的だという事。「他にも私たちの様な講はいくつもあるけど、●●さん達のグループは間違った教えを信じているから、極楽浄土には居場所が無いんだ」なんて事も平然という。きっとその別の講の人達も、そのおじさん達のグループの事を「間違った教えを信仰している人たち」と呼んで馬鹿にしているに違いない。

原始仏典・スッタニパータの中で、大好きなブッダの言葉がある。

「自分が優れていると思うな。自分が劣っていると思うな。自分が普通だと思うな」

このブッダの哲学のどこに、「自分たちだけが極楽浄土の一等地に行けると決まっている」なんて教えが入り込めるんだろう? まともな頭なら考えなくても、その矛盾に気がつくはずだ。秘密門徒達の独善的な信仰の中には、ブッダの教えは何一つない。単に形式を模倣しているだけのエセ仏教徒だ。そんなまがい物の仏教にはオレは関わりたくないのだ。

あるとき浄土真宗の僧侶に、この秘密門徒の事をさりげなく聞いてみた事がある。彼は吐き捨てるように「それはヨゴレ門徒と呼ばれている」と教えてくれた。

どうやらこうした秘密門徒は日本各地に存在しているようだ。女房も千葉でそんな集まりに誘われた事があるという。いったいいつからこんなものが出来て、現代にまで続いているのかどうも判らない。

ネットで調べてみると、隠し念仏という言葉が見つかった。この秘密門徒は、どうやらこの隠し念仏の成れの果てなんだろうとオレは思う。。
リンク:隠し念仏

こういう信仰の始まりは、支配機構に組み入れられた既存の仏教に対する反発だったんだろう。だが時代が流れ、その存在そのものが本来の目的からそれて、異質なものに成り下がってしまったんじゃないかなとオレは思う。

救済願望 世界最古のチェーンレター

sponsor link
夕日

「何かがやってきて救ってくれる。」「この信仰を信じているものだけが助けられる」。
こんな戯れ言はきっと、もう何千年も続いているのだろう。世界最古のチェーンレターの様なものだ。いったいいつまで待ち続けているんだい? 待つだけじゃなく、他に出来る事もあるだろうよ。

姿形は違えども、どれもこれも自分だけが救われたいという、浅ましい考えがその根底に流れている。そんなアホな話にのめり込む人たちを見ていると、細そーーーいクモの糸に大量に群がる亡者を見るような気がしてくる

繰り返すが、そこにあるのは自分じゃなにもしないくせに、誰か、何かがやってきてこのクソみたいな世界から、自分だけを救ってくれるというご都合主義だ。確かにいつだってこの世は悲惨な出来事だらけだ。だけどもその悲惨な出来事は変える事は出来ない。だが、その起こった事に対する自分の反応だけは、自分でコントロール出来る。それが世界を支配する事だとオレは思う。

そうした自分だけ特別だなんていう、極大化した自意識の亡者の大群が細いクモの糸にすがっているのが見える。やがてその糸が切れて、亡者どもの墜落先はきっと地獄だろう。そしてまた再び、別の救済者の到来を待つのだ。その繰返しこそが地獄なんだと思う。

そうして何かにすがりつく亡者は、すがりつけばすがりつくほど約束の地、極楽浄土が遠ざかってゆくのだ。

こんな事を書くと、秘密結社からオレは狙われるかも知れないw


ここまで読んで頂きありがとうございました。記事をシェアしていただけたら有難いです。 東倉カララ

コメントを残す