奪われたのは一生の自由 戦争の傷は生涯癒えなかった大叔父

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戦争の傷

魚屋のおじさんと呼ばれた大叔父

もう30年以上前に亡くなった大叔父に、今でも申し訳ないことをしてしまったと悔やんでいる事がある。

それはあたしが17歳の頃の話だ。あたしは網走の高校に行っていたので、毎日斜里駅から網走まで汽車で通っていた。とある帰宅の汽車で、隣のボックスに座っていた爺さんから「あんたみたことがあるのだが。」と話しかけられた。

声をかけられる前から、何となく見覚えの有る顔だなと思っていた。いや声をかけられる前からもう既に気がついていた、「魚屋のおじさん」だと。

あたしの祖父には弟が2人おり、1人は長年トラックで魚の行商をして生計を立てていた。そのことから「魚屋のおじさん」と母やおばたちから呼ばれていた。もう一人は斜里の隣町で農家をしていて、町議もするなどちょっとした名士だった。

その時あたしの隣のボックスに座っていた老人は、しばらくぶりにあったとはいえ間違いなく「魚屋のおじさん」だった。一目で解った。

だけどもその時、何とも言えない変な恥ずかしさを感じて「知らない」と言ってしまった。あたしと同じボックスには同級生達がいて、いつものたわいのない会話で盛り上がっていた。そんな同級生達の前で親戚に会うというのが、その時なんとも気恥ずかしかったのだ。

変な気恥ずかしさ。思春期のへんな自己主張というか、自意識からそんな事を言わせてしまったのだろうか。とっさに「知らないと」言ってしまった。それ以上その老人を横目で見る事なく、意識から遮断してしまった。

その老人は間違いなく、「魚屋のおじさん」だった。知っているのに知らんふり。嘘をついたというよりも、久しぶりの再会で話しかけてくれたというのに、知らないふりをして大叔父の心を傷つけてしまった事を後悔している。その事が今でも心の奥底のどこかに引っかかっている。

「魚屋のおじさん、ほんと悪い事しちゃったよ」と。

大叔父とあたしは名前の1字が一緒

その大叔父は勝おじさんとも呼ばれていた。というのも名前に勝の字が入るからだ。あたしも本名に勝の字が入る。同じ勝同士なのだ。

そんな些細な一致もあって、同じ名前を持つものとして、あたしは小さい頃から大叔父に特にかわいがられたという記憶がある。どちらも勝が付く事から、お互いに何か親しみを感じていたのだ。あたしも祖父の次ぐらいに勝おじさんが好きだった。いつもにこにこして、快活なおじさんだった。

老人ホーム暮らしになった大叔父

生涯、魚屋のおじさんと呼ばれていたが、商売は70歳代には辞めていたようだ。その後何をしていたのかは知らないが、80歳になる頃には老人ホーム暮らしになっていた。勝おじさんは独身で身寄りがないことから、病気か何かをきっかけで入所したらしい。

最後に勝おじさんに会ったのは、あたしが19歳の時だった。両親と一緒に網走の勝おじさんが暮らす老人ホームに見舞いに行った時の事だ。その時の勝おじさんは施設の外まで出迎えてくれて、足腰もまだまだしっかりしていた。それから3年後に彼は亡くなった。享年82歳だった。勝おじさんは身寄りもない事から、実家の墓に入る事になった。

生涯独身の身を貫いた勝おじさん

先日大叔母の1周忌の集まりがあった。その大叔母は勝おじさんの一番下の妹で、去年92歳で亡くなった。

その集まりの時に、勝おじさんの話が出た。おば達はみな口をそろえて、勝おじさんの事を良い人だった、優しいおじさんだったと語った。勝おじさんのすぐ下の弟・明とは大違いだった。こちらの大叔父については、ずいぶんといろんな悪い話が出た。

そんな皆に慕われて、優しかった勝おじさんだけれども、何故か結婚する事もなく一生涯独身を貫いた。そして寂しい最後を迎えた。

勝おじさんがずっと独身だったとは知っていたものの、その間の事情はあたしは全く知らない。なのでおば達にその事情を聞いてみた。

「勝おじさんはなんで独身だったの? お見合いとかの話は全くなかったの?」

一生独身とはいえ、お見合いの話の一つぐらいは来たのではないかと思ったのだ。

その質問に対しておば曰く
「優しいし良い人だったから、何度も見合いの話は持ち込まれたよ。でもね何度もお見合いはするんだけど、必ず最後は断ったんだよ。どうしてかはわからないけど、絶対に首を縦に振らなかったんだよ。」

昔は今と違って地域にはお世話役をする人が必ず居て、独身男女が居ようものならあれこれ引き合わせて結婚させていたそうだ。なので当時は独身者というのが少ない時代だったという。そんな時代に生きた勝おじさんには、それこそ何度も縁談の話が持ち込まれたという。だけれども勝おじさんはどんな良い話でも、何故か最後には必ず断ったという。どうしても結婚する事に踏み切れなかったようなのだ。

戦争、そしてシベリア抑留

あたしの祖父は大東亜戦争勃発時には中年だったため、徴兵される事はなかったという。だがその弟達、勝と明は出征した。そして戦死する事なく5体満足で、戦後しばらく経ってから日本に帰ってくる事が出来た。何故しばらくかというと、2人ともシベリアの収容所に送られていたのだ。戦争だけでもつらい経験だったというのに、その後さらに過酷な抑留生活を送らねばならなかった。

戦争、シベリア抑留ですっかり性格が変わってしまったという人は多数居る。明おじさんはソビエトに完全に洗脳されて帰国した。脳みそを共産主義者に書き換えられてしまった。そのことが原因で長男(あたしの祖父)とは意見が合わず、何かあるたびに激しく対立したそうだ。その影響は今でも息子の代にも残っている。

ところが勝おじさんはそんな経験をしたにも関わらず、戦争前と変わらずやさしいおじさんだったという。だけどもその勝おじさんの心は、何かが壊れてしまったのだろう。勝おじさんが戦争で経験した事が、彼を苦しめ、もう普通の生活を送る事を拒んだに違いないと想像するのだ。年の近い勝おじさんの従兄弟は、戦争前はとても働き者だったが、戦争から帰ってくると人がすっかり変わり酒ばかり飲んでで全く働かなくなったという。

勝おじさんはそういう事は一切無く、兄から譲られた農地を弟(明)に譲り、自分一人で出来る自営業についた。独りがよかったようだ。戦争が勝おじさんの心の奥深くを壊してしまったのだろうと思う。表面的には以前と変わらないおじさんではあったのだが。戦争体験が縁談をすべて断った理由じゃないかと、おば達は話していた。戦争で壊された心は、もう二度と戻らなかったのだ。

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戦争の傷 奪われてしまった自由 

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本当なら全く別の人生を歩んでいたのかもしれなかったのだ、勝おじさんは。だけども若い時に兵隊にとられて自由を奪われてしまった。

戦争から無事生きて帰ってきたものの、その経験は多大な後遺症を残した。今ならPTSDなる言葉があり、そうした心のケアをしてくれる体制が整っていると聞く。だがあの当時は誰も、何もそうした心の傷を治してくれるものなど何もなく、勝おじさんは一生心の傷口から血を流し続けていたのだ。

戦争体験のせいで、もう二度と普通の人生は歩めなくなってしまった勝おじさん。結婚して幸せな家庭を築くような夢は、彼の頭の中には無くなってしまったのだろう。だから勝おじさんは最後まで独身を貫き、そして孤独に死んでいったのだ。それはある意味、死ぬまで彼の自由は奪われたままだったのだ。

戦争が終わっても、彼の心の中の戦争は死ぬまで人生に暗い影響を与え続けた。勝おじさんの自由は戦争が終わったからといって、決して取り戻せなかったんだ。

彼の孤独な生涯は、自由を一生涯奪われてしまった結果だとあたしは思っている。死んでゆく仲間達、そして憎くもないのに敵兵を殺さなければ自分が殺される目に遭う戦場体験。それが彼から自由を奪ってしまったのだと思う。

勝おじさんの人生は、一生戦争経験に捕らわれていたのだろうとあたしは思う。

大叔母の1周忌で、あたしは勝おじさんのそうした内面に初めて触れた気がする。優しく笑っていた顔の下に、地獄を見た苦しみが隠されていたのだ。その内面が人を拒んだのだろうと思う。

高校生のあの時の後悔は、今もなお深く残っている。ほんと勝おじさんに悪い事をした。あれから40年経った今も悔やんでいる。ひょっとすると似た名前を持つ変わり者の勝に、孤独な勝おじさんは特別に親しみを感じていたのかもしれないのだ。それなのに拒絶された。

勝おじさんよどうぞ安らかに。

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2 Responses to “奪われたのは一生の自由 戦争の傷は生涯癒えなかった大叔父”
  1. 匿名 says:
    • katzkasha says:

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