皆がしているからというワナ ワナだらけの社会で生きる、大事な1つのモノ

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人間なんか一個のブロックにしか過ぎない

ワナにからめ捕られた知人

知人の1人が家を建てた。3000万の一戸建てで、彼は定年までローンを払わなければならないらしい。彼はこれからの人生、ローンの支払いの為に生きているようなものだ。30代で彼はそんな重荷を背負う事を決めたのだ。

常々彼はこう言っていた。「今の職場で意にそまない部署に異動させられたら、この会社を辞めてやる」と。だけども彼には30数年分の人生を担保した借金が有る。もうそんな事は無理だろう。

彼の職場では30代で家を持つのが当たり前という風潮があるそうだ。皆がそうしているから彼も家を建てる気になったに違いない。自由だった彼はもういない。お金に縛られて、彼は自由を捨ててしまったのだ。

これは「皆がそうしているから」というワナだ。

社会に張り巡らされているワナ

これで彼は老人になるまでローンに縛りつけられ、今の職場に縛りつけられる。決して意にそまない部署に異動させられてしまったとしても、もう辞めるわけには行かないのだ。目に見えない牢獄に自分で入り込んでしまったのだから。目に見えない牢獄とは、借金の事だけじゃない。みんながそうしているからと云う牢獄だ。30代で家を持つものだという、他人の価値基準で自分の人生を決めてしまったのだから。

この社会にはあちこちにワナが仕掛けられていて、あらゆる手段を使って人を縛りつけようとする。しかも本人が自発的にそのワナにかかるように、巧妙に。

つくづく傭われていると言うのは、目に見えない牢獄の中に閉じこめられているんだなぁと実感する。それはなにも住宅ローンだけじゃない。時たまその黒い鋼鉄の檻が可視化する時がある。そんな時に自分は所詮下級奴隷なんだなぁと自覚する。奴隷は檻なんか見えない方が楽に生きられるのかもしれない。

自由になるには

モノが増えれば増えるほど自由から遠くなる。確かに家を持てば家賃の心配は無くなる。だけども家を持てば、土地を持てば、それに絡められて好きな所に住む自由が出来なくなる。マイホームとは牢獄の別名だ。

車を持てば確かにどこにでも好きな所に自由に行く事が出来る。だがそんなものを持てば、やはり自動車税だ、車検だ、ガソリン代、メンテナス代と次々と経費がかさむ。そしてその為に余計に稼がねばならなくなる。車を持てば自由が削られるのだ。

モノは持てば持つほど、その為に稼がなければならなくなる。そして稼ぐと言う事は、今のご時世、人に雇われるという人が殆どだろう。そうなると、会社の都合で自由はどんどん失われる。

お客さんの為、上司の都合、仕事のスケジュールの都合、そこには自分の自由なんかない。ただ稼ぐ為の手段だったはずが、気がつけば組織の歯車にされて、個人の自由はどんどんと奪われてゆく。

学校教育は良き歯車になるためにある

人を歯車にしてしまうワナ

学校の教育は子どもを良き歯車にするというカリキュラムが隠されている。どうすればより正確に動く、良い歯車になるかと言う事を幼少のころから徹底的にたたき込まれる。組織の期待に背けば罰を与えられ、組織の期待通りに行動すれば褒められる。オレ達が子どものころから調教されてきたのはそういう原理だ。如何に歯車として期待通りの動きができるのか。

歯車には自由なんかない。ただの歯車が自由に動かれたら、周りに迷惑がかかる。組織がちゃんと動かない。そうやって歯車として優秀に働く事をひたすらすり込まれる。

長年一生懸命働けば働くほど羽車はすり減り、やがて不用品として廃品置き場に送られるのがオレ達奴隷の人生なのだと思う。子どものころから本当の自由なんか知る事なく育ってきたのだ、我々1個の歯車は。

見えない黒い鋼鉄の檻

人を家畜にしてしまうワナ

ときたまふとした偶然に、オレ達を囲む黒い鋼鉄の檻がかいま見られる瞬間がある。自分の意思で、オレは自由なんだと勘違いして、勝手な動きをした時に、そうした檻がかいま見られる事がある。巧妙に見えないように隠された黒い檻で、がんじがらめに囲まれているのが奴隷の生活だ。

たとえ起業して自分で自分の生活費を稼いだとしても、檻の格子の間隔が広くなった程度で、本当の自由なんてモノは手に入れられない。モノに溢れ、目に見えない人のつながりにがんじがらめにされ、仕事に縛られ、人は一生を不自由に生きる。

例え社長になったとしても、ノータリーン・クラブのようなものに入れられて、偽善奉仕活動の為に貴重な自分の時間を奪われる。

時たま本当に自由な人間を見る事がある。路上に住む人は、本当は天使なのかもしれない。だけども、牢獄につながれた奴隷は、安物の金メッキされた鎖を自慢げに浮浪者に見せびらかし、そうした浮浪者をさげすむ。蔑まされるべきは自由を知らない奴隷のほうなのだとオレは思う。

目に見えない牢獄から脱出するにはどうすればいいのか?

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少なくとも、人に雇われるな、自分で稼げ。モノなんか持つな。モノなんか少なければ少ないほど自由になれる。家なんか持たない方が良い。人とのつながりも牢屋をより強固にするための鎖じゃないのかと思う事が有る(例:ノータリ−ん・クラブ)。1人静かに何も持たず林に暮らす事の方が、本当の自由なのかもしれない。

じゃあ自由って何処にあるんだ? こんな嫌な社会から飛びだしてしまいたい。何処か人知れない南の島に流れ着いて、毎日海岸でぼんやりとノンビリ過ごしたい。ところがそんな静かな南の島も、ペットボトルやプラスチックのゴミが流れ着いてくる。何処に居たって追いつめられるのだ。

じゃあ、自由は何処にある。それは自分の心の中にしか無いのかもしれない。誰にも犯されない、誰にも縛られない、それは本当の自分自由。それは自分の心の中にある

心の自由に気がついていない人は多い。自分の心すら他人に奪われてしまった、完全無欠の奴隷がほとんどだろう。それは他人の脳みそで思考し、他人の脳みそに命ずるままに行動する人間だ。TVや新聞があなたに代わって考えてくれる。あなたはただそれを再生するだけだ。それってあなたの本当の思考なのか? 誰か他人の思考なんじゃないのか?

そうした情報で頭が埋め尽くされた人間に自由なんかない。そんなノイズを排除して、1人静かに考える事が、自由を得る事ただ1つの道だ。人に操られるな。何かに操られるな。心の自由こそ、この世の中でもっとも尊いものだとオレは思う。だから誰にも奪われてはいけない。

ここまで書いてきてふと気がついた。そもそも大多数の人は、自由なんか欲しくないんだ。奴隷だろうが、家畜だろうが、自ら望んでそうなっているんだ。

オレがこんな事を書いているのは、そんな奴隷を目覚めさせようなんてこれっぽっちも思っていない。おまえらは一生奴隷のまま生きて死んで行くが良いと思う。

オレがこんな文書を書く理由はただ一つ。同じ思いを抱く、極く少数の語り合える友が欲しいからだ。


ここまで読んで頂きありがとうございました。記事をシェアしていただけたらとっても有難いです。 

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