危機の時代1人のヒーローなんかいらない 1人1人がヒーローになる時代が来た
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ヒーローがみんなを救う
映画やドラマの王道パターンがある。小は地域から、大は地球規模の大災害まで、人々が逃げ惑い、救いはなく途方に暮れる。そんな危機の際に決まってヒーローが現れる。みごとそのヒーロー(たいがい1人)が社会の危機から人々を救うというのが、その王道のパターンだ。考えてみたらそんな映画ばかりが、大昔から多数製作されてきた。
今はまさに、そんな危機の時代。戦争。恐ろしいへなちょこウィルスの脅威。食料難から、うさんくさい気候の変動。これまでドラマで飽きるほど見てきたような危機が、次から次へとあたしたちの社会に襲いかかってくる。どうする、この危機を? 我々はどうやって立ち向かったらいいのだ? まさに今こそヒーローが必要とされる時じゃないか。ヒーローはいったいいつ現れるんだ?
ヒーローとはただの依存 大衆操作のための刷り込み
こうした危機の際に、まさに人類が絶滅するという絶妙のタイミングで、そうした映画ではヒーローがさっそうと現れる。そして最後には脅威を解消する。めでたしめでたしだ。
人類のヒーロー願望が成就され、そして世界は救われる。ドラマを見ていた人は、ドキドキしていた胸をそっとなで下ろすのだ。
だけど、それってちょっとおかしくないか? 1歩でも100歩でも下がって、そうした状況を俯瞰してみよう。何だかおかしいぞ。
そうしたヒーローって実は巧妙に作られた、大衆を何かに依存させるための操作じゃないのかと思う。日々そうした映画やドラマで、一人一人の頭にヒーロー願望(誰かが、何かがこの危機からあなたを救ってくれる)をすり込まれている。普段からそうした願望をそーっと頭に、無意識下に植え付けられきたんだ、あたしたちは。
サブリミナルにそうした概念が植え付けられたあたしたちは、実際に何か危機が起きれば、きっと誰かヒーローが現れて問題を解決するに違いないと考える。危機は誰かが解決してくれるものなのだと。困難な時を迎えれば、誰かに頼ればいいのだと。それは「奴ら」から受けた長年の刷り込みの成果だ。
誰かがやってきて危機を解決するという事は、聞こえはいいが実は大衆を何かに依存させるという事だ。過去から大量に作られたヒーローものの映画は、大衆が常に何かにすがりつくように仕向けるためのマインドコントロールが隠されていると思う。大昔から存在する救世主願望も同じ構造だ。誰かがやってきて、あなたを救うのだ。それは「奴ら」が大衆をコントロールするための非常に良く出来たツールだ。
ヒーローという名の大衆コントロールのツール
現実の問題はとても複雑だ。そんな一人のヒーローが現れて全てを解決するなんてことはまずあり得ない。ところがそんな危機的状況に一人のちょっとした人間が現れて、解決策みたいな事を言い出せば、マスコミが寄ってたかって持ち上げてブームにする。
そうやって「奴ら」は巧妙に大衆を誘導し、不満を上手にコントロールする。そうしたヒーローは何かをしなくても良いのだ。何かをしそうな雰囲気だけで大衆は満足する。
そうやって大衆は、あたかも大衆の代表、ヒーローのようなものによってコントロールされる。為政者にとって都合の良いように。そうした土壌はヒーローものと言われる映画やドラマで大衆を涵養しているのだ。大衆はバラバラじゃコントロールは大変だ。だけどもひとまとめにすれば、コントロールはとても楽になる。まさに羊のように
ヒーローもののドラマというのは、一言で言えば大衆が何かに依存しやすくするためのツールの一つなのだ。
奴らが本当に恐れているのは、1人1人が立ち上がる事
そんな現代社会。あたしたちは常に何かに依存するように仕向けられている。それは「奴ら」にとって、とても都合がいい事だからだ。
実際の話、「奴ら」と戦ってくれる本物のヒーローなんか現れても、実は「奴ら」にとって痛くもかゆくもないのだ。そんな脅威を取り除くのは簡単簡単。その一人のヒーローを倒せばすむ事なのだ。一人を倒せばいいから、あっというまに一件落着。「奴ら」の配下のマスコミを使えば、ちょろいもんですよ。大衆なんか、能無しばかりだからすぐに付和雷同する。
反権力を装っているあの政治家なんか、本物だったら、あっというまに消されていただろう。
奴らが本当に恐れているのは、一人一人が立ち上がり個別に戦うという事だ。大衆がまとまらず、各自がてんでバラバラに各地で抵抗すれば「奴ら」は手出し出来なくなる。まとまるって言うのは、じつはとってもラクチンなのだ、奴らにとっては。
日本で原発事故が起きた時に、うさんくさい若者のデモ抗議が起きた。そしてうまくガス抜きを終えると、その運動は消えてしまい、見事大衆の原発反対運動も霧散霧消してしまった。あのデモの主催者の人相の悪い事。あの時もマスコミがずいぶんと持ち上げた。そして頭の悪い左翼、リベラルが飛びついて運動を盛り上げたよな。その結果が、今の状況だ。原発事故は今も継続中だ。だけども誰もそれを問題にしない。おかしくないか?
大衆なんてまとめてしまえば、コントロールがらくちんらくちん。ちょろいもんですよ国民操作なんて。だから奴らは国民をまとめようとする。羊飼いが羊をどう扱うかを見ればよくわかるだろう。大衆は羊の群れでしかないのだ。
今本当に必要なのは1人のヒーローじゃない
今、本当に必要なのは1人のヒーローじゃなく、1人1人が泣きながらでも、うつむきながらでもいい、立ち上がり抗議し、抵抗する事だ。それが社会や世界の危機を解決する方法だと思う。ヒーロー、救世主願望は奴らが大衆をまとめるためのただの作戦なんだ。
日々ニュースを見ていると、悪役ばかりが大活躍しているドラマを見ている気になる。正義の味方はいったいどこにいるんだと言いたくなる。ヒーローはいったいどこにいるんだ?と。
そんなものは探したって何処にもいない。もしそんな者が現れたとしたら、それは「奴ら」によってつくられた大衆操作のための偽物なんだ。いい例が環境少女ともてはやされる、あの歪んだ顔の少女だ。マスコミが持ち上げるものに本物はない。
だけども真のヒーローはいる。いや正しくはヒーローズがいる。なぜならヒーローはあたしたち1人1人だからだ。あたしたち1人1人がが立ち上がれば、ヒーローに変わる。そうすればこの世はちょっとはまともな社会になると思うんだ。
1人1人が意識を持って、この社会をちょっとでもよくしてゆこうとする。誰かに託すのではなくて。それこそが本当のヒーローなんだと思う。行動するか? しないか?(誰かに依存するか) その間にはとてつもなく大きなギャップがある。
この世界では、誰もあたしたちを救ってなんかくれない。あたしたちを救ってくれるのは、あたし自身しかいない。自分以外の何ものも自分を救ってはくれないのだ。
あたりまえでしょ。誰が好き好んで縁もゆかりもない他人を救わなきゃならないの? だからあたしたち1人1人がヒーローになればいいんだ。1人1人が個別の戦いを始めればいいのだ。ほんの少しでも良い、社会をよくするために自分で出来る事をする。1人1人じゃ大きな事は出来ないが、そんな小さな火が全国に広がれば、「奴ら」は、もう消しようが無い。
そんな人達が1人でも多く現れ、自分が出来る少しの事を行えば、この世界は変わると信じている。
1人のヒーローに依存させようとする「奴ら」 偽善タローによる市民団体つぶし
もし1人1人が立ち上がったとすれば、「奴ら」にとってこれはとても都合が悪い。だからそういう動きは、芽のうちに潰そうと襲ってくる。これはあたしが関わっている団体に実際に起きた話だ。あたしは「市民が作る政治の会」という政治団体のスタッフを4年以上前からやっている。その団体の黎明期にこの事件は起きた。
何とかタローという大衆人気のある政治家がいる。元芸能人の彼は、政府に不満を持つ大衆によって大喝采され、そしてマスコミにも寵児のように持ち上げられ、ちょっとしたブームを巻き起こした。
その彼の話を聞こうと、内海聡医師が作った「市民が作る政治の会(その当時は日本母親連盟を名乗っていた)」の関東支部が講演会を開いた。当時は彼の事を純粋に同じ志を持った大衆運動の同士だと思っていたのだ。
その彼はゲストとして呼ばれた講演会で、その市民団体の事を、右翼カルトの頭のおかしな団体だとか、日本会議の別動隊だとか、事実無根の嘘八百を並べて、彼を招いたその団体を辛辣にこき下ろした。
直前まで市政の会側は偽善タローに講演会の内容についての打ち合わせをお願いしていたのに一切無視。講演の直前に会場に現れ、その挙げ句にこの狼藉を働いた。そして会側には一切挨拶も何もなしで、テロ行為を行った後そそくさと会場を後にした。なんて人間として最低の振る舞いなのだろう。これが大衆人気(頭の弱い左翼)のある政治家の行動だった。
偽善タローが行ったのはそれだけではない。その講演の様子を用意周到録画して(会場に配下を配置して録画していた)、数時間後にはその様子をウェブで公開して、この小さな、ほぼ無名の市民団体をぶっ潰そうとした。まさにこれは市民団体をぶっ潰すために狙い撃ちしたテロだ。
おかげで「市民が作る政治の会」は大混乱に陥り弱体化は避けられなかった。これによって初期の活動はかなり支障を来した。偽善タローによって付けられた、うさんくさい右翼団体というレッテルのおかげで。彼のもくろみは大成功だった。
「奴ら」はつねに1人のヒーローに大衆を依存させようと仕向ける
今になって気がついた。これは1人1人の市民が立ち上がられては困るスジが、偽善タローを送り込んで、このようなテロ行為を実行させたんだと思う。「奴ら」にとって1人1人が意志を持って立ち上がられては困るのだ。容易に操作出来る偽善タローのようなヒーローに任せてもらわなければ困るのだ。
ついでに書くなら、大衆に大人気の偽善タローは国会でいったい何をした? たしかに国会でアホ首相を追及したが、それで何の結果を残したというんだ。たしかに誰も阿呆首相に言えなかった事を、偽善タローは国会で追求した。それを見た反政府の大衆は拍手喝采した。偽善タローよくぞ言った! さすが偽善タローだというわけだ。
ところが、それで何が変わったんだ? 何も変わっちゃいない。一つ成果があったといえば、政府に不満を持つ大衆のガス抜きになっただけだ。まさに彼こそがヒーローだ。役立たずの野党の中で、唯一活躍している本物の野党というわけだ。
だけども、何が変わった? 行動こそ政治家を判断する唯一の判断基準なのだ。いくら立派な事を言ったとしても、何も変わらないのなら、何もしないのと一緒だ。まさに「奴ら」の願望通りの大活躍を繰り広げているわけだ。ちゃんと自分の頭で考えられる人達は、彼にとても批判的だ。だけども多数の反権力だと思い込んでいる、自分じゃ考えられない左翼的な人には未だに絶大な人気だ。
そんな事で本物のヒーローなんか何処をさがしたっていやしないんだ。あたしたち1人1人がヒーローになる以外には。
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