私達を取り囲む、見えない鋼鉄の檻

Table of Contents
自分で自分の時間の使い方を決める生活
前回の投稿で、最近の私の生活ぶりについて書いた。朝は紅茶を淹れることから始まり、茶を飲みながら庭に来る鳥を眺めたりと、のんびりと一日が始まる。なんてことを書いたと思う。
今の私は仕事の依頼があれば一生懸命働き、それ以外の時間はのんびりと好きなことをしている。そりゃあ毎日必ず仕事があるわけではないから不安定ではある。不安もある。だけどもこの自由さは何物にも代えがたい。今の状況がたまらなく好きだ。ついに理想の生活を見つけたと思う。
こんな生活をもう3年も続けているのだが、それでも時たま不安にもなる時がある。これでいいのかと? 確かに40年近く朝は決まった時間に家を出て、する事がなかろうが決まった時間まで職場に拘束される。そんな生活が当たり前だった。
だから決まった時間までに何かをしなくてもいい、自分で時間の使い方を決めてしまって良いという生活をしていると、昔の感覚が蘇って、これで良いのか?と時々不安になるのだと思う。
いやこれで良いのだ。だって生活に必要なお金は、ちゃんと稼いでいるのだから。何も問題はない。
目には見えない鋼鉄の檻

その不安感というものは一体どこから来るのだろう? と、ちょっと考えてみた。その時見えてきたのが、これまで自分の人生を覆っていた、目には見えない強固な鋼鉄の檻だ。私はずっとこの不可視の鋼鉄の檻に囲まれてで生きてきたのだ。
毎日8時30分までには出勤していなければならない、することがなくたって17時までは帰宅してはいけない、仕事が残っていればそれを片付けなければ帰宅してはいけない。その他諸々、以前の私の生活はこうした目には見えない檻の中に閉じ込められていたのだ。不自由極まりない毎日。それは決して抜け出してはいけない檻なのだ。
時たま訪れる不安感というのは何だろう? それはそうした目には見えない檻の中に慣れすぎてていた事から生み出される不安なんだろう。その檻の中には最低限の生活は保証されるという「メリット」がある。檻の中にさえ居れば飢える心配はないのだ。以前の自分はまるで動物園の動物のようだ。檻の中にさえ居れば、日々困ることなんか殆どない。
そのメリットと引き換えに、それまでの私は何か大事なものを差し出していたのだ。それは何だろう?
自由であるということ

今自営業になって知ったのは、私は自由だということ。今の私は、子供の頃からずーっと閉じ込められ続けていた不可視の檻の外に居るのだ。どこにゆくのも自由、何をするのも自由、全ては自分で決められる。自分で決めた毎日を過ごすことができるのだ。そんな自由な世界に、今わたしは生きている。
なにかの動画で見たのだが、長年檻に閉じ込められて過ごしてきた動物が、初めて牢から開放された時の映像があった。その動物は檻の蓋が開けられたとき、まずは怪訝な顔で、檻の中から外を見回していた。そして出ても大丈夫だということを慎重に見極めてから、そろりそろりと檻の外に出ていった。その顔は、とっても不安そうだった。大丈夫なのだろうか? と不安に思う気持ちが明らかに顔に現れていた。もはや自分は自由であり、開放されたという喜びを全身に発散させ走り出したのは、随分と時間が立ってからだった。
そう、自由になると言うのは最初とても戸惑うことなのだ。そして自分が自由になったと気がつくにも少し時間が必要なのだ。

