日常の薄皮1枚の下に隠れている非日常 災害・災厄は突然に
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非日常
52年間生きてきた中で、非日常と云う言葉に相応しい経験を3つした。
あさま山荘事件
1つ目はあさま山荘事件だ。1972年だから、オレは5歳か。その日一日中、TVを付ければあさま山荘の事ばかりをやっていた。大好きな漫画や特撮ものの番組も一切中止で、朝から晩までずーっと山の宿を写すばかり。
何で一日中こんな面白くない放送をしているんだ、と憤った思いは今でも忘れられない。ちょっとした出来事で、いつもの生活ががらりと変わる事があるとこの時に薄々感じた。
東日本大震災
2つ目はやはり2011年の3月11日だ。あの日仕事をしていると、ツイッターに地震速報が流れた。今までに見た事のないマグネチュード。震源地は東北だと云うのに、まもなくこんな日本の東の外れまで揺れ始める。しかもゆっくりと長々と。揺れる電信柱や、電線を恐れながらじーっと見つめていた事を思い出す。
これは尋常じゃない地震だ。すぐさまツイッターでは仙台駅が半崩壊等の情報、画像が流れ出す。その日からしばらく続く非日常は、今思い出しても悪夢を見ているようだった。いや悪夢は未だ続いている。現在も日本は核惨事は継続中なのだ。
北海道ブラックアウト
3つ目はちょうど1年前の2018年9月6日。いわゆる北海道ブラックアウトだ。北海道東部は地震の揺れが無かった事から、朝起きてしばらくの間、停電すら起こっている事に気がつかなかった。異変に気がついたのは、女房の友達から心配のメールが届いた事から。
その事でやっと北海道で大きな地震があり、北海道全域で停電が起きている事を知る。会社に出社すると、停電で何も仕事が出来ず、直ぐに自宅待機。2日間仕事は休みだった。町は機能を停止していて、コンビニやスーパーマーケットは早々に品物が売り切れていた。
夜、犬と散歩に出掛ける。灯の全く無い街を初めて見た。きっと100年以上前はこんな風だったんだろう。夜空の異常なくらいの美しさに目が眩んだ。
当たり前は、当たり前じゃない
日々当たり前のように暮らしている生活。そんな生活も、ちょっとした事件で脆くも崩れ去る。当たり前のように電気を使い家事を行い、当たり前のように食べ物をスーパーマーケットなどに買いに行く。そんな当たり前と思っていた事が、ちょっとした事で、瞬時に当たり前でなくなる事にとても驚く。
当たり前のように過ごしているこの生活は、ホントに極薄い皮のようなものなんだと思う。マリモ羊羹に楊枝を突き刺すと、くるりと皮が剥け、濃緑の羊羹が剥き出しになる。日常なんてそんなマリモ羊羹のゴムのうす皮のようなものだ。ちょっとした出来事で、その薄皮が剥け、非日常が現われる。当たり前と思っているこんな生活なんか、あっという間に崩れてしまうんだと云う事を、こんな体験から感じるのだ。
今の時代なら、ある朝出社すると会社が倒産して、社屋が閉鎖されているかもしれない。そんな非日常は何処にでも潜んでいる。何でもない日常なんて、逆に異常な事なのかもしれない。薄皮一枚の下に隠れている非日常。一日一は奇跡。大事にしていきたいんだ。
ごく当たり前の日々こそ実は記念日なんだと歌う、チャットモンチーのこの歌詞は鋭く美しい。
ここまで読んで頂きありがとうございました。記事をシェアしていただけたら有難いです。 東倉カララ