斜里神社はオホーツク最古の神社 1796年創祀
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神社巡り
今年の春から、出先で神社を見つけたらお参りをしている。女房が御朱印を集めている事から、自然とそうなってしまったのだ。
神社といっても、各地域で色々違いがあり面白い。お祭りしている主祭神は誰なのか。何年に誰によって建立されたのか。そんな事をお参りのついでに調べてみるのがオレは面白くて仕方がない。境内にある建造物や石碑、石灯籠、こま犬等が古そうならば、いったい何年と刻印されているのだろうと必ずチェックする。
オレが住むホーホーツク管内は何だかんだいって、倭人が入り込んでからそう時間が経っていない。なのでここらの神社はみんな新しものと言い切っていいだろう。奉納されたものも、一見古そうに見えても昭和のものばかりだ。大正、明治期に作られたものなど、今のところ見た事が無い。
そんなある日、地元の斜里神社には今年まだお参りしていない事に気がついた。
天保5年(1834年)奉納の石灯籠が斜里神社にあった
ところが意外にもオレが住んでいる斜里町に、これまで見てきた中でダントツに古いものを発見してしまった。
斜里神社に参拝のおりに、境内の石灯籠に目がいった。そこにくっきりと刻まれている年号はなんと天保5年。西暦で言うなら1834年になる。この石灯籠は明治維新の遥か前に、斜里神社に納められたものという事になる。
斜里神社には、明治を飛び越して、江戸時代に奉納された石灯籠が置かれていた。
そんな古いものがここにあると思っていなかっただけに、オレはかなり驚いたよ。しかもこの石灯籠はオレが子供の時からここにあって見慣れたものだったのだ。いやオレが子供の頃どころか、もっと昔からここに立っていたのだ。そんな古いものが斜里神社にあったとは!
そんな古びた石灯籠をよく見てみると、各パーツの古さが異なっている。ハッキリと補修された跡がある。古いものと新しいもののハイブリット構造になっている。きっと素材劣化の為、何度か補修されて今に至っているのだろう。それにしても1834年につくられたものが、斜里神社にあるというのは驚きだ。ひょっとするとこれはオホーツク管内最古の人工物なのかもしれない。
しかも斜里神社はオホーツク最古の神社
こんな古びた石灯籠の発見から、ちょっと斜里の歴史についておさらいをしてみた。そこではっきりしたのは、シャリ(昔は片仮名でこの地は呼ばれていた)は、オホーツク地域では1番古くから開けた町だった事を改めて知った。今じゃオホーツク管内では、人口順で6番目の小さな寂れた街になってしまったが。
さらに神社庁のサイトでオホーツク管内の各神社について調べてみた。すると、その殆どは明治期に建てられたものだと判った。それよりも古いものになると、網走神社が文化9年(1812年)に創祀されている。
じゃあ天保5年じゃ、斜里神社は網走神社より新しいのかと思った。ところが斜里神社は網走神社よりもさらに古い、寛政8(1796年)年に創祀と記述されている。網走神社よりも古い斜里神社。神社はその当時の人たちの街の中心なわけで、やはりシャリがオホーツク管内で1番古い街だった事が裏付けられた。
この天保5年と書かれた石灯籠には2人の名前が刻まれている。三上伴七氏と住吉丸清六氏だ。この2名はオホーツクを支配する商人・又十藤野の現地責任者という事だ。その当時の斜里には、シャリ場所と云うものが置かれており、漁や海上交通の安全を祈願して石灯籠が斜里神社に奉納されたのだろう。
御朱印のない斜里神社にはちょっとがっかり
今と違い、こんな石灯籠を奉納するというのはとてもお金のかかる事だったと思う。これは往時の斜里の繁栄を証明するとても貴重な資料だと思う。今ではすっかり寂れてしまったシャリだが、こんなところにかつての繁栄が残されていた。
現在網走神社はオホーツク管内の一の宮を名乗っているのだが、古いという事では斜里神社が1番だ。これは町民として誇っても良いものだと思う。
そんな誇るべきオホーツク管内で一番古い神社だと云うのに、御朱印も押してもらえない。オレはその事はとっても残念だと思う。そんな事もオホーツク最古の神社でありながら、北見国一の宮の座を網走に譲ってしまった原因なのかもしれない。
相内神社のようなカラフルな御朱印でなくて良い。ただ無骨に斜里神社と書いてある御朱印でいいと思う。そんな御朱印すらないのは、ちょっとどうかと思う。オレはオホーツク管内最古の斜里神社をもっとアピールすべきだと思うのだが。誰か宮司さんに進言してほしいものだ。御朱印をやってほしいと。どうせなら御朱印にオホーツク最古の神社と一言入れて欲しい。
北海道東部の神社の創祀を調べた
ついでに調査範囲を道東地区に広げて、各神社の創祀が何時かを調べてみた。調べてみてはっきりしたのは、創祀が古い神社というのはどれも海沿いの町である事。漁をする為に住み着いた人たちから街が生まれている。そして安全を祝う場所として神社が創祀されたと云うことが分かる。明治以前の北海道の内陸部には倭人は殆ど住んでいなかった。
以下に道東地区の明治以前に創祀された神社をリストアップしてみる。こうしてみると、やはり斜里神社や網走神社の古さが際立っているね。あと意外だけども利尻島は、斜里・網走なんかよりももっと古くから倭人が住み着いて漁を営んでいた事がはっきりした。
道東地区の創祀の古い神社
広尾町の十勝神社は寛文6年(1666)。
利尻島の利尻町にある北見富士神社は享保年間(1716〜1736)。
標津町の標津神社は天明年間(1781~1789)。
稚内市の厳島神社は天明2年(1782)より前に存在していた。
稚内市の北門神社は天明5年(1785)。
釧路市の厳島神社は文化2年(1805)。
白糠町の嚴島神社は文化年間(1804~1818)。
根室市の市杵島神社は文化年間(1804〜1818)。
根室市の金刀比羅神社は文化3年(1806)。
礼文町の嚴島神社は文化5年(1808)。
豊頃町の稲荷神社は文政11年(1812年)。
利尻富士町の利尻山神社は文政年間(1818〜1831)。
稚内市の岬神社は文政文政年間(1818〜1831)。
枝幸町の厳島神社は文政2年(1819年)。
利尻富士町の北見神社は文政8年(1820)。
羅臼町の羅臼神社は安政年間(1855〜1860)。
別海町の野付神社は安政5年(1858)。
厚岸町の厚岸真龍神社は安政4年(1858)。
礼文町の礼文神社は文久3年(1863)。
日本の歴史を考えると、どれもこれも新しい神社ばかりだねぇ。でもアイヌモシリ侵略者の子孫としては、どれもこれもとても古く思えるのだ。
北海道の人間は根無し草
ここまで読んでくれた人は、たかが天保5年程度で驚く事なのか? と思う人も多いだろう。函館などの道南地域であれば、古くから倭人が入り込んでいるので、もっと古いものがあるだろうし、内地なら天保程度なら新しいものになるだろう。女房の出身地の千葉神社なんか創祀は1000年だという。
だけどもこのオホーツク地域というのは、何といっても日本の最辺境の地で、しかも酷寒の地だから倭人が入り込んだのつい最近の事だ。多くの町は明治になってから、屯田兵が入り開墾(アイヌ人にしてみれば略奪だ。蝦夷共和国だったら、アイヌ人はこんな目にあわなかったのかもしれない。)していったという地域が多い。
この島はそれまではアイヌやオホーツク人達の人間の大地だったのだ。そうした先住民が残していったものは、すべて遺跡として扱われている。今の倭人の歴史から切り離されてしまったものに見えてしまう。開拓前の歴史はなんだか曖昧模糊とした、漠然としたものという感覚がある。
そんな事で歴史や伝統から切り離されてしまった、オレみたいな開拓民の子孫は、たかが200年の昔でも、その古さに驚くのだ。それより前の歴史から切り離されてしまったのだから。
千葉県出身の女房と会話していて、やはり歴史観や文化感に関して、オレは隔たりを感じてしまう。北海道の人間は根無し草みたいなものなのだ。いったいオレは何処から来たんだ? そして何処へ行くんだ? フラフラと根無し草は水の上を漂うだけなのだ。
5年ほど前にデビュー直前のイギリス人作家のNatasha Pulleyさんが我が家にホームステイした事がある。その時彼女に、斜里で1番古い建物を紹介しようと言う話になった。90年前の建物だと伝えると、
「そんなのは全然古くない。そんな新しいものには興味がない」
とそっけない返事が返ってきた事を思い出す。自分たちが古いと思っていた尺度は、別の人からみると全然古くはないのだ。きっとアメリカ人も同じ経験をした事があるだろう。オレはそんな古い歴史にあこがれを感じるのだ。
本当はオレ達は根無し草なんかじゃないのだ。曾祖父さんたちが北海道に来る前につながる歴史があるんだ。だけども多くの道民は、その歴史から切り離されてしまったように思える。それはアイヌモシリを侵略したという事に対する罰なのかもしれない。
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