我がニューシネマパラダイス 網走の映画館オホーツク劇場(1987年閉館)

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網走の七福神祭り

網走 子供七福神

毎年9月に、網走市の4条通りでは、七福神祭りという行事が行われる。これはたぶん街の中心商店街の4条通り(現在はアプトフォーという名前で呼ばれている)を活性化させようと云うイベントなんだろうと思う。今年で26回目。昭和の初期に、七福神を網走神社に奉納した事に因んでいるとの事だ。今年は9月7日〜8日に行われた。

普段は一方通行の4条通りはお祭りの間、数々の出店が道路の両側に軒を連ねる。骨董品や古着屋、手作りグッズにその他市民団体のお店も多数出展されている。やはり人気なのは食べ物屋だ。地元の食材を使った鮨、ザンギ丼その他だけではなく、網走の友好都市等からの出店が、この日のためにわざわざ駆けつけて、お茶やカステラ、ギョウザ、牛タン、その他色々なものを販売している。

今年も骨董品屋でたいした役に立ちもしないものを買ってしまった。七福神祭りと言うだけに、会場内をときどき七福神を乗せた宝船が横断する。この日は子供七福神が船に乗り込んで、会場を曳かれていった。

賑やかだった35年前の4条通りを懐かしむ

網走と云うのはオレにとって青春の街でもある。高校の3年間通った街なのだ。この4条通りは毎日のように歩いた。そんな事もあって、七福神祭りを楽しみながら、頭の中では今と昔(35年前)のこの通りの姿を重ね合わせていた。

今日だけはこの通りもとても賑わっている。だけども平日は歩く人も少ない、寂しい商店街になってしまった。4条通りの東の入り口から、郵便局までは更地が目立つ。オレが高校生の頃には流行っていた洋服屋はもう無くなっていて、ケーキ屋も閉店。楽器店は「ご用の方はお電話下さい」なんて、シャッターに張り紙がしてある。きっと営業をしていないのだろう。あそこにあった書店はもうない、ここにあった飲食店もない。どこも地方は衰退が進む

覚えているお店はあれもこれもシャッターが閉まっている。今日だけの賑わいの裏に、その寂しい現実が透けて見える。現在元気に営業しているのはフジヤ書店と、去年店舗を新装改築した千里堂メガネぐらいだろうか。

廃館になった映画館 オホーツク劇場跡地

4条通りの中心には広い広場があって、この日歌謡ショー等のイベントが行われていた。ここはかつて金市館という地場デパートだった。今は更地だ。その金市館跡地を通りすぎ、次のブロックに入った所で振り返って見る。

通りの斜め向こうには大きな古びた建物が有り、灰色のシャッターが閉まっている。シャッターの上には大きなパラボラアンテナが飛び出している。ここはオレが子供の頃は、オホーツク劇場と呼ばれる映画館だった。親に連れて来てもらい数々の映画を楽しんだ、思い出の場所だ。ここはオレのニューシネマパラダイスだ。今、ここが映画館だった痕跡は何も残っていない。

今の御時世、新作映画は新作のうちに見られる。だがオレが子供のころは、新作映画は半年遅れが普通だった。新作映画がオホーツク劇場に来るまでに、それだけの時間がかかったのだ。桜前線より遥かに遅い、ロードショー前線だ。

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↑オレにとって、この作品はニューシネマパラダイスを遥かに超える感動の作品

ちびりそうになったエイリアン2

これはオレが自宅で浪人生活をしていた1986年の話。宝島なんかの雑誌で春ごろ、「エイリアン2」が物凄く面白いなどと取り上げられていた。やっぱりその映画が網走に到達したのは10月になってからだ。

浪人生だから好きな時間に映画が見られる。オレはその日、朝10時の初回を見に行く事にした。劇場に入ると、館内は静まり返っていた。誰も客がいない。そりゃそうだ。こんな地方都市で平日の朝から映画を上映して、いったい誰が見に来るんだ? 入り口にモギリのおばちゃんもいない。

奥の事務所に声を掛けると、おばちゃんが居て、「小銭を用意しているから、代金は後で良いから先に場内に入ってて」と言う。だだっぴろい場内にいるのはオレただ1人。気分は貸しきりだ。さあこれからどんなワクワクする映像が見られるのだろうと期待に胸を膨らませた。

映画が始まって数十分、人類とエイリアンとの戦いは熱がこもってくる。ところがオレは逆に、だんだんと冷えが体に浸透して行く。ここらで10月と言えば、日中でも最高気温は10度以下が普通だ。まして誰もいない劇場だから、暖房なんかつけてくれない。スクリーン上のリプリー達とエイリアンの戦闘が激しくなればなるほど、オレは凍えんばかりに冷えきって行く

少しでも暖かくなろうと手足をこするので、映画に集中できない。そのうち冷えで尿意が高まって行く。映画の方はクライマックスだが、オレの膀胱もクライマックスだ。エイリアンとの戦いよりも、寒さと尿意との戦いのせいで、オレはちびりそうに震え上がったわけだよ。これじゃ映画を楽しめる訳が無かった。

それから5年後に飯田橋の佳作座で、エイリアン1と2の同時上映会があった。ともに少々古典になりかかっている映画にも関わらず、劇場内は若い人でいっぱいだった。特に女性が多い。エイリアンが突然現われる! 人間に襲いかかる! その度キャー! キャー! とあちこちで叫び声が響き、最高の環境。網走で寒さと戦いながら見たエイリアン2はいったい何だったんだ? 息付くヒマも無いアクションの連続と、キャー! キャー!で、観客もノリノリ。これまで見たどの映画よりも楽しむ事が出来た。映画は環境が大事だ。

1987年3月オホーツク劇場閉館

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それはともかく、思い出の多い網走のオホーツク劇場は、いったいいつ閉館したんだろうと調べて驚いたよ。オレが寒々しいエイリアンと尿意との戦いから、たった半年後の1987年3月に閉館になっていた。

リンク:網走市歴史年表 昭和62年(1987)

そりゃあ平日だとはいえ、あれだけ客が入っていなければ、経営的には苦しいのはしょうがないよな。あの日オレが10時から3時まで(田舎なので2本立てだった)館内にいた間に、やって来た客はたった5名だった。

網走 オホーツク劇場跡
現在のオホーツク劇場跡(パラボラアンテナ付いている建物)

1970年代までは映画と云えば人気の娯楽だった。その頃オホーツク劇場は大ヒットがあれば斜里にも出張して、中学校の体育館などで上映会をしていた。サスペリアの上映の際には、校門から体育館まで長蛇の列が続いていたのを思い出す。映画産業はあの頃が稼ぎ時だったんだろうね。



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