何でも1番にこだわった負けず嫌いの祖父
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まだ60歳前の祖父の写真
先日、父が一枚の写真を持ってきて、それをA3サイズに引き伸ばしてくれと頼まれた。その写真は50年前の祖父のものだった。
祖父は習字が達者で、その写真も自ら描いた書を前に正座しているものだった。計算して見ると今の私よりもちょっと年上になる。まだ60歳前の祖父の姿だった。
その写真の何とも味わいのある事。軽く微笑んだその顔には、どうだこの書は良い出来だろうと云う、自信と自慢が滲んでいた。そう、祖父清造はとても負けず嫌いで、なんでも自分が一番にならなければ気の済まない性格だったのだ。
清造は2006年に97歳で亡くなった。生まれは明治43年。とても体の丈夫な爺さんで、最後の1ヵ月は衰弱が進み寝たきりになったが、それまでは毎日自分の足で動き回り好きな事をしていた。最後の1ヵ月は、自分じゃ何も出来ない体になってとても不本意だったろう。
津軽に生まれ、青年期に樺太に移住
清造は津軽の今別町で生まれた。清造がまだ幼い頃に父親が他人の連帯保証人になり、家・財産全てを失った。清造にその時の話を聞くと、まるで自分が見たかのように孫相手に語った。まるで講談師だ。
「○○に好きなだけ酒を呑まされて、べろべろになったところで、借用証書の連帯保証人のハンコを捺さされたんだ」
そのため田畑、家、財全てを失った。無一文になった清造の父は、幼い子供たちを連れ、身一つで北海道に渡った。その当時北海道開拓に応募すれば、ある程度の畑がただで支給されたという。
やがて成人になった清造は結婚し、更なる飛躍を求めて樺太に移住する。なのであたしの父は樺太で生まれだ。樺太時代の祖父は力自慢で、村の相撲大会では誰一人清造に敵うものがいなかったという。清造と呑んだ時には、いつもその時の自慢話が続く。
「相撲はオレが村で一番だった。」「村でいつも威張り腐っていた○○とケンカになり、右腕一つで投げ飛ばした。それ以来○○はオレをみるとこそこその逃げ隠れするようになった」等々、延々と樺太時代の話が続く。
清造は基本的になんでも「オレが一番だ」だった。とにかく負けん気の強いじい様だった。
孫相手に真剣勝負
そんな清造さん、孫が遊びに来ようものならいつも真剣勝負だった。あたしが子どもの頃は朝になると、
「かけっこに行くぞ」
と孫を集めて、畑一周の勝負を挑んでくる。1周2〜3kmの畑を走らされる。長距離の苦手なあたしは、いつも孫たちの中でビリだ。そして清造に馬鹿にされる。
「60歳も近い年寄りにお前たちは敵わないのかw」と。
また孫たちが酒の呑める歳(16歳ぐらい)になってくると、正月に集まった時などは呑み比べの勝負になる。その頃の清造は70歳を超えた頃。一日に1升ぐらい毎日酒を呑んでいたから、孫になんか負ける訳が無い。
その時10人近くいた孫は全員討ち死に。翌朝は誰一人起き上がる事が出来なかった。が、清造1人は普段通りに朝の6時に起き上がり、朝食を食べながら冷や酒をコップであおり孫達を挑発する。
「なんだお前ら若いくせにだらしが無い。二日酔いには迎え酒がよく聞くぞ。ほら呑め! わっはっは」
また喜寿を迎えた頃には、アイススケートを新たに始めた。孫の子供たちがアイススケートを始めたのを観て負けん気が頭を持ち上げてきたのだ。運動神経の良い爺さんだったので、すぐにアイススケートもマスター。孫の子ども達相手に、またもや勝負を挑んでいた。なんでも勝負だった。戒名は「釈勝負」にすれば良かったのに。
清造最後の勝負は、90歳になってから。清造の住む街の町民運動会のマラソンに出場する事にした。事前に医師の健康診断をうけて、問題なしと判定された。若い頃から鍛えていただけあって、歳はとってもしっかりとした走りっぷり。そりゃあ優勝は無理だったけれども、最高齢者の走る姿に、沿道からは拍手が鳴り止まなかったという。ゴールは大拍手に迎えられた。たしかこのマラソンは95歳ぐらいまで続けたはず。
「オレは90歳を超えてもこんなに走れるんだ!」
と豪語していたが、本心は優勝出来ずに悔しかったろう。
そんな事で何でも勝負! 1番にこだわったじい様だった。あたしも子どもの頃から清造からは、なんでも1番を目指せと言われ続けた。
1番というプレッシャー
そんな1番のプレッシャーが、あたしをこんなにしてしまったのだろう。今じゃなんでも1番がとても嫌いになってしまった。1番だけは嫌だ。
それというのもあたしの旧姓は相内と云う。ひらがなで書けば「あいうち」。ほとんどあいうえおの様な名字なので、幼児の頃からなんでも1番だったのだ。
出席番号は大学に入るまで常に1番。1度も他者に出席番号では1番を譲った事が無い。身体測定から、効きもしないインフルエンザの予防接種、何かの面談、全て1番目だった。まったく迷惑な話だ。大学生になり始めて出席番号が48番になった時の嬉しかった事。
そんな子供の頃の体験から、今じゃ1番がすっかり嫌いになってしまった。そんな旧姓に嫌気をさした事もあり、結婚した際には妻の姓を選んだ。結婚したのは清造が亡くなった翌年。これで1番の呪縛から解放された。
今回はたまたま出てきた1枚の写真から、祖父の思い出を簡単に記して見た。清造は地元でも、名物爺さんとして名が知られていた。結局あたしは一度も勝つ事のなかった、自慢の祖父だった。
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