田舎の夜闇は本当に暗い 都会で暮らして郷里の暗さに初めて気がついた大学1年生の夏休み
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人気の無い暗い田舎町 変わり果てた故郷
大学が夏休みに入った。東京からの丸一日の長い汽車旅を終えて、やっと終点斜里駅に到着した。乗客はオレを含め僅か数人だけだった。見慣れた待合所は、ぼんやりとした灯が誰も座っていないイスを照している。無人の待合所を通り抜けて、駅の出入口に向かう。つい3ヶ月前まで毎日くぐり抜けたこの出入口なのに、その時は妙に懐かしく感じた。出入口を抜けると、そこは3ヶ月ぶりの斜里の街だ。
出入口のドアを通り抜けた所で、オレしばらくたたずんでしまった。静かだ。ものすごく静かだ。そして斜里の駅前はあまりにも暗い。暗過ぎる。どうしてこんなに暗いんだろう。オレ以外の汽車の乗客数人が先を急いで歩く姿以外、そこには誰一人ひとはいなかった。まるで何か事件でもあって、無人になってしまった町に来てしまったような気分だ。数ヶ月で変わり果ててしまった斜里の街に、オレはしばし凍りついた。
1987年7月の末 酷暑
これは1987年、大学一年生の夏の話。初めての東京暮らし。東京の夏は、オレには信じられないほどの暑さだった。逃げ場の無い暑さに、心底うんざりしていた。一日中汗をかかなければいられない暑さなんかこれまで経験した事が無い。大学が夏休みになる時が待ち遠しくて仕方なかった。
大学が夏休みに入ると、逃げ出すように東京を離れる。もうこんな暑い場所はうんざりだ。その当時、飛行機があまりりも高いため、汽車を乗り継いで斜里まで帰る事にしていた。
上野駅を出発したのは22時21分、寝台急行はくつるに乗車。はくつるは翌朝7時11分に青森駅に到着する。青森駅から、今度は7時30分発の青函連絡船に乗り、函館港に到着は11時20分。これでようやっと北海道上陸。
今度は函館駅から網走行の特急おおとりに乗り換える。終点網走には21時56分に着いた。だがこれで終わりじゃない。ここからさらに22時発の斜里行きの普通列車に乗り換える。斜里駅にようやっとたどり着いたのは22時49分だ。
夜の22時台と云えば、いつもなら授業が終わり、アパートに帰り着くのとそんなに変わりのない時間だ。大学の2部学部は、17時30分から22時までが授業時間だ。1・2年生の頃は3限までびっしり授業を入れていたので、アパートに帰り着くのはだいたいそんな時間になってしまうのだ。
その時間にもなれば、夕方のラッシュアワーの時間とは違って、電車の乗客は随分減る。といってそんな遅い時間でも都内の駅前は、眩く光であふれ、まだまだ沢山の人がたむろしている時間なのだ。毎晩そんな明るい街を、人の流れの中を、オレはアパートに向かって歩いていた。都会は眠らないとはよく云ったものだ。
変わったのは自分の目
もうすぐ23時になる時間。オレは斜里駅の出入り口に立たずむ。つい昨日までの日常なら、この時間の駅前は、人がひしめき合い、車も行き交い、まだまだ賑やかな時間のはずだ。ところが、今目の前にしているのは、誰も居ない、ひっそりとした暗い街。駅前から実家までの通りも、街灯はまばらで、足下もよく見えない、ほとんど闇の中を歩いているような気分だった。
暗い。本当に暗い。3ヶ月前まではこの街にオレは暮らしていたのに、こんなにも斜里の街が暗いなんて感じた事が無かった。たった3ヶ月の都会暮らしで、こんなにも自分の認識が変わってしまった事に、オレは驚く。オレの育った街は、こんなに暗かったのか。そして自分が日本の辺境に生まれ育ったと云う事に。
それは初めて、生まれ育った街を客観的に眺める事が出来た瞬間だった。
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